昨年に引き続き、観客投票による参加型映画祭。
4/6(水)までに開場で1プログラムごとに1枚、配布される投票用紙にて上映作品の中からリクエスト上映を受け付け、
その中から上映可能な作品は最終日4/9(金)に再上映いたします。
発表は4/8(木)17:00〜PLANET+1にて又はHPにて、シネ・ドライヴ2010各賞と共に発表いたします。

シネドライヴ2010各賞 発表
○シネ・ドライヴ大賞
   『東京人間喜劇』 深田晃司監督
今の自分の立場に近しい作家たちの祭典であるシネドライヴでの受賞は、光栄であると同時に、大変なプレッシャーも感じています。期待を失望に変えないよう次回作にも全力を注ぎたいと思います。
 会場に足を運んで下さった観客の皆さんに感謝します。
 また、当然のことながら、この映画は多くの人たちに支えられて完成しました。
 出演してくれた劇団青年団の俳優たち、岩下徹さん、齋藤徹さん、関ってくれた多くのスタッフに感謝します。特に、過酷な条件のなか準備からクランクアップまでの半年間、唯一の助監督として支えてくれた鹿川裕史さんにはこの場を借りて最大級の賛辞を送りたいと思います。ありがとうございました。
 シネドライヴが、今後も「商業映画」に至るための単なるステップとしてではなく、オルタナティブな映画を支える場として発展していくことを期待しています。

○監督賞賞
   『美しい術』 大江崇允監督
監督賞を頂き、ありがとうございます。《美しい術》は昨年シネヌーヴォで上映させて頂いた僕の初監督映画です。そこから一年、観客や映画祭から事実上無視され続けた作品なのですが、拾って頂き本当に感謝しております。『「映画」を撮ろう!』という志で制作した作品が、「映画」として無視され、しかし一方で今日、「映画」であることをこんなに評価頂いたことに感謝致します。ありがとうございました。

○PLAX賞
   『何食わぬ顔』 濱口竜介監督
『何食わぬ顔』は2002年に製作を始め、2003年に完成しました。完成当時は誰にも見向きされなかった作品が今こうして評価を頂いたことに驚いています。最新作も出品していたわけなので、旧作に賞を頂くということは映画祭側のある種の挑発とも思いつつ、『何食わぬ顔』に今ようやく順番が巡って来たのかもしれない、という感慨もあります。稚拙さも見えますが、自分の作った映画の中でも最も愛着のある作品であり、作った当時から「もう二度とこんな作品はできない」と思った作品でもあります。一方で、この作品が持っている「何か」を、今の自分は越えていかなくては、と思わずにはおれません。この作品を上映する機会をくれたシネドライブ、来てくれた観客の皆さんに感謝します。

○観客賞
   『プラスチック?ストーリー』 崔正成監督
観客賞ありがとうございます。
シネドライブ2010を企画して頂いたスタッフの皆様、プラネットプラス+1、シネヌーヴォのスタッフ、映画出演者、制作スタッフ、そして作品をご覧になっていただいた皆皆様、本当に心から感謝しています。
この映画祭に出品し、上映させて頂く中で多くの人と対話することが出来ました。
今後、より多くの人と映画を通して繋がっていくことを望んでいます。
人と人との繋がりの中に映画の未来を感じているからです。
ジャニオタ最高ー!!!

○審査員特別賞
   『ママは売春婦』 イ・サンウ監督
   『泥棒猫』 居原田眞美監督
   『通り魔は通りでしか人を刺さない』 中井友昭監督
   『窓』 久保田裕子監督

今回の受賞作品がどのように選ばれたかを簡単にご説明します。まず観客 賞に関しては、観客の皆さんにお配りしたリクエスト用紙にリクエストがあったタイトルの中で最も多くの得票数を集めた作品が選ばれました。次にそれ以外のメインの三賞の選考方法についてご説明します。まず五人の審査委員のそれぞれに自分が印象に残った作品を複数挙げてもらい、そのうち二人以上の推薦があった作品を最終選考に残しました。この場合、公正性を保つために、全作品が少なくとも三人以上の審査委員が見ているという条件を作り出すべく、この条件から漏れる作品に関しては、審査委員全員がそれらの作品を改めて見直し、それらの中で優れたものは最終選考の対象としました。
最終選考に残った作品の質について、演出、脚本、撮影を始めとする総合的な観点、および将来性から、審査委員の間で討議が行われ、改めて決選投票が行われましたが、ほぼ全員一致でこれら三作品が選ばれました。それらのうち、シネ・ドライヴ賞は第一推薦、監督賞は第二推薦、プラックス賞は第三推薦となり、惜しくもそこからは漏れはしましたが、言及するに値する作品は審査員特別賞としました。以上の受賞作品に関しまして は、今後、Planet+1、シネ・ヌーヴォXでの公開をバックアップいたします。



シネ・ドライヴ賞審査委員
桝井孝則、唐津正樹、葛生賢、山崎紀子、富岡邦彦

葛生賢監督の参加について
葛生氏よりコメントをいただきました

今回、シネ・ドライヴ賞の審査会議の開催にあたって、審査委員としての参加の要請を受けました。その理由として、今回の映画祭出品作品のかなりの部分の作品を見たこと、また私自身が映画批評家として活動しておりより広いな観点から一本一本の作品の質を判断することができること、という二点が挙げられました。そこで公正性を保つための参加条件として、私自身の作品は審査対象外とするということで快諾しました。   葛生賢



日時:4/2(金)11:00〜 場所:PLANET+1
昨年も好評だった『ドライヴ100マイル』のvol.2。
参加作家、ゲストを迎えての朝まで生討論!


(*写真は昨年シネ・ドライヴ2009でのドライヴ100マイルの様子)




今年発の新企画。毎回1作家を取り上げ、ゲスト・アテンドを中心にその作家についての魅力を存分に語っていただきます。
(*参考上映あり)


3/21(日)  12:00〜  @PLANET+1

第1弾 東京藝術大学の卒業作品『アンナの物語』を撮った山田咲監督が選んだのはアメリカ・インディペンデントの巨匠 ジョン・カサヴェテス
今回は2004年製作の『毎日恋してる。』から「桃まつり presents kiss!」の一編『タッチミー』の軌跡の中でどのような影響が見られるのか

アメリカの孤独  山田咲

「アメリカの孤独」を感じる瞬間がある。映画「狩人の夜」でロバート・ミッチャムがLOVEとHATEの拳を握りしめる時、カーソン・マッカラーズの小説「悲しき酒場の唄」で斜視の大女が愛する小男をかけてボクシングリングに立つ時、ハウリングウルフがうなり声をあげてブルースを歌う時、映画「傷だらけの挽歌」で愚かな弟スコット・ウィルソンが顔面をゆがめて少女を求める時。その時彼らは、どんなに努力しても絶対に他者とは理解しえないという絶望にうちひしがれている。と同時に彼らは絶望の下から沸き上がる、愛とも憎しみともつかぬ激烈な感情をみじめな自分の体を通じて表現する。しかし、だからといって何も解決しない。そして彼らは繰り返し繰り返し表現し続ける。例えシーンが変わっても、曲が終わりにさしかかってもいつまでもやめない。それはあまりにも無様で滑稽だ。滑稽すぎて笑っちゃって泣けて来る。これがアメリカの孤独だ。
ジョン・カサヴェテスの映画にも全編を通じてこのアメリカの孤独がみなぎっている。例えば「フェイシズ」の中盤でジーナ・ローランズが娼婦仲間と2人の客の男を自宅でもてなすシーン。彼らは突然踊り、歌い、ギャグをやり、次の瞬間罵りあい、殴りあい、秘密を告白し、また踊り、歌い・・・をひたすら繰り返す。確かに状況は全く変わっていない訳ではなく人物間の断絶が解消されたかに見える時がやって来はするが、次の瞬間にはもう直前の関係は覆され、やはり根本的な解決に至ることはない。解決を求めて映画を見る人間にとってはさぞつらかろう時間が延々と流れる。
その繰り返しの時間の中で、あらかじめプロットに従って書かれたセリフは一度持っていた意味を剥ぎ取られ、再び繰り返しの中でつかみ合う体を通して新しいより多義的な響きを手に入れる。そして体はその虚しい運動の繰り返しの中で、フィクションとかつてカメラが回っていたあの瞬間の間に投げ出される。その時、突如として「映る」のだ。アメリカの孤独が押し出したジーナが解消されない感情を抱えたまま、揺れながら映っている。一体何を見ているんだろう、しかし心はこんなにも動く。つまり映画とは一言でいえばEMOTIONなのだ。




3/22(月・祝)  12:00〜  @PLANET+1

第2弾は『東京人間喜劇』がプレミア上映される深田晃司監督
先日世を去ったエリック・ロメールを取り上げました
人間間の空気を撮り続けたロメールと人間喜劇の関係とは

ロメールと言葉  深田晃司

 ロメールの映画における台詞の魅力とは、言葉が物語の歯車としてのみ消費されることなく、言語、あるいは会話そのもの、ある状況下でのコミュニケーションそのものが、映画が描くべき「モティーフ」として選択され活写されていることだ。光や風や、女の膝と同じように。
 例えば、どれでもいいのだが、ロメールのフィルモグラフィーにおいても即興度の高いと言われる『緑の光線』('86)のワンシーンを見てみよう。ヒロイン、デルフィーヌ(マリー・ミエヴィール)が、友人たちと食事をしている。「肉は食べない」と言う偏食の彼女に、そこにいる皆が質問を浴びせていくのだ。
 デルフィーヌは、ときに戸惑い、言葉を詰らせ、苦笑し、質問に答えつつ自分の考えを頑に守り、反論していく。
 恐らく大部分が即興的に作られたのであろうここでの会話は、一見物語の本筋とはまるで関係のない「他愛のない」内容ばかりである。しかし、それでいいのだ。ロメールにとって言葉とは、台詞職人的な名台詞を俳優に披露させる場ではなく、物語を前に進めるための歯車でもない、それ自体が、カメラの前で言葉を発する俳優の身体と密接にリンクするモティーフなのだから。
 ロメールはあるインタビューに応えて言う。「(撮影前に俳優と話すのは)私は、俳優によって登場人物を定着させていくからです。俳優は実験台ですね」。
 そのアプローチは時に即興であったり、俳優個人への徹底したリサーチであったりするが、裏を返せば、それは映画に監督のコントロールの埒外にある偶然を積極的に導入すること、物語や哲学が破綻しかねないリスクを負うことを意味する。それを可能たらしめているのが、ロメールの脚本家としての抜群の構成力である。
 誰がどの場面で誰と出会い、どの場面で離れ、次の場面では誰が会話をし、誰がいつひとりになるのか、すなわち映像=フレームへの人の出入りをロメールは厳密に構成する。それによって、感情の推移を観客がある程度は想像できるだけの下地が準備されるのだ。結果、映画は細部での「ゆらぎ」を許容するだけの強度を持ち、俳優は記号的な感情表現や説明的な台詞から自由になる。その言葉や身振りは一瞬一瞬スクリーンに生成されていくような鮮烈さを獲得するのである。
 「ロメールっぽさ」とは決して「パリっぽい軽妙な恋愛模様」ではなく、物語構成への大胆かつ繊細な配慮をこそ指すのである。
 最後に余談になるが、カイエ・デュ・シネマ誌のロメール追悼号の表紙は、女の美しい足とそこに伸びいていく男の手を捉えたスチールであった。これは、『クレールの膝』('70)のワンシーンであるが、ロメール追悼に際し、辛気臭い「遺影」やそれらしい「名場面」など持ってこず、あえてロメールのエロティシズムが前面に出たこの写真を選んだことに、「さすがはカイエ」となんだか妙に感動してしまった。ロメールは生きている。




3/27(土)  12:00〜  @PLANET+1

第3弾は批評家としても活躍されている葛生賢監督
氏が選ぶのは日本映画の偉大な巨星 溝口健二
『BLANC VACATION』から『火の娘たち』においてどこに溝口が潜むのか
『吉野葛』と「ミゾグチの亡霊たち」

ミゾグチの亡霊たち  葛生賢

 溝口健二は亡霊に憑かれた映画作家である。現存する彼の最初期の作品のうちの一本である『東京行進曲』から遺作の『赤線地帯』にいたるまで、亡霊的な表象がスクリーンの表層を漂っている。『東京行進曲』『折鶴お千』あるいは『名刀美女丸』にみられるように、死霊、生霊の別を問わず、戦前期、戦中期の作品における亡霊たちは、多重露光という極めてサイレント的な手法によって私たちの前に姿を現すが、戦後期になるとそうしたギミックは排され、『雨月物語』に典型的なように俳優の身体それ自体が即、亡霊として提示されるようになる。と同時に『武蔵野夫人』や『楊貴妃』に見られる(聞かれる)ように、物語上ではすでに死んだはずの人物が「声」として物語に回帰してくるようになってくる。
 父王の亡霊を見たハムレットが「Time is out of joint」と呟いたように、亡霊がこの世界に出現するためには、何らかの仕方で時空間が「脱臼(out of joint)」する必要がある。それを典型的に示しているのが、『折鶴お千』の冒頭、神田明神を眺める夏川大二郎と山田五十鈴が突如、過去の自分たちと切り返しによって繋がれる衝撃的なシーンである。この作品は、アラン・レネの試みに三十年先んじているばかりか、それよりも遥かに複雑な構成を持っている。ここで山田五十鈴の頭髪を覆う頭巾が風にはためくショットは極めて美しい。後に私たちは『西鶴一代女』の戦慄的な回想場面でこのヴェールの変奏を目にすることになるだろう。  生身の俳優の身体を亡霊として提示できるということは、物語における生者と亡霊の区別が、語りがそれらに割り当てる役割にしかその根拠がないということでもある。この論理を押し進めていくと、生者が物語上生きながらにして(つまり死なずに)亡霊になることが可能となる。それを行ったのが『残菊物語』である。映画の後半で森赫子がひとり下宿屋の二階に佇むショットを思い出してみるならば、そこでの彼女がまさに生きながらにして亡霊として演出されていたことがわかるだろう。これをとりあえず「亡霊化」と呼んでおくが、改めて『残菊物語』を始めから丹念に見直してみるならば、彼女を「亡霊化」するための主題系のネットワークを、溝口がいかに注意深く張り巡らせているかがわかるだろう。
 『山椒大夫』において、遠くから聴こえる田中絹代の「言霊」が花柳喜章にそうしたように、溝口作品において亡霊たちは生者に倫理的な決断を迫る。彼らは腐敗した現世に正義を実現すべく到来するのだ。『噂の女』の橘公子のように「亡霊化」する女たちの役割とはそのようなものである。
 こうした観点に立てば、しばしば言われる溝口作品の女性の二類型、すなわち『浪華悲歌』『祇園の姉妹』の山田五十鈴に代表されるような「抵抗」する女と『残菊物語』の森赫子をその典型とする男性のために「自己犠牲」を強いられる女というタイプ分けがいかに表面的なものにすぎないかが分かるだろう。一見「自己犠牲」に殉じる女性とみえる存在は、その実、彼女たちを搾取し抑圧する社会に対し、「亡霊化」を通して「抵抗」しているのだ。




3/28(日)  12:00〜  @PLANET+1

第4弾は奈良を拠点に積極的な活動をされているチーズfilmの
大江崇允監督 庵野秀明について語っていただきます
宮崎駿や富野由悠季などの話も交えながら
作家としてだけでなく「演出家」としての役割についても考察

フィクション映画の「○○性」を観る  大江崇允

庵野秀明は「新世紀エヴァンゲリオン」で人気の映画監督です。彼の経歴はアニメに始まり、97年に実写映画へ転身。そしてまたアニメへと戻ってきました。
彼がアニメを離れた理由は色々とありますが、アニメキャラクターと人が演じる身体の違い、人間の身体が持つブレのようなものを求めてのことでした。
昨年、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」が公開されました。過去の作品のリメイクという要素と全く新しい「エヴァ2」という新作の両方を一つにまとめたような内容です。全三部作の第二弾で、これは富野由悠季監督(代表作「機動戦士ガンダム」)の得意とする構成で、彼の影響もあるかと思われます。
「新劇場版:破」は生々しく、「ロボットもの」の域を超えた肉々しさが画面から溢れて来ました。アニメのキャラクターは「記号」でしかなく、どこまで行っても人の身体とは全くの別物です。しかし、ここにフィクションであることの面白さがあるはずです。身体が存在しないのにそこにある身体性が観客の脳で身体を形作る。その「性」というものが芸術の可能性の一側面です。
アニメや実写に関係なく、フィクション映画はこの「性」を描き、観客の脳で変換させる楽しさがあるはずです。事実である必要はなく、それが世界の「真理」と結びついた時に「創作者←→観客」双方の人生に豊かさをもたらせれば幸いです。




4/4(日)  12:00〜  @PLANET+1

第5弾は桃まつり「うそ」で『カノジョは大丈夫』を撮った安川有果監督
カノジョが選ぶのはレオス・カラックス
『TOKYO』で沈黙を破ったこの監督をどう分析するのか