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2006年10月15日(日) 11:00〜19:30 『脚本構成』

講師:いまおかしんじ(映画監督)・女池充(映画監督)




総評

いまおかしんじ:シナリオは、それを基に映画をつくる、という前提のもの。映画のための青写真。しかし、映画はつくっていく上でいろいろ困難なことが起きる。これでもう完璧だ、というところまではなかなかいかないんだけど、これ以上はできない、必ずこれを映画化したい、というところまで、徹底的に叩き、力を持たせる。スタッフを説得し、俳優を説得する力を持つまで、叩いて欲しい。そこまで力のあるものはこの中にはまだ無い。

女池充:短い期間で書き上げたことは素晴らしいと思う。書き上げなければ始まらない。
映画に向かうということは、僕の基準としてはスクリーンがあるんです。脚本もスクリーンに向かっていくためにあると思う。ニューヨークで映画を観ていた時、アメリカの映画はまるで…映画館じゅうから映画が迫ってくるような、まるで映画に包まれているような気がしました。ですが、日本の映画はスクリーンサイズのまま迫ってくるような印象で、日本映画はこんなに小さいんだ、と数日間ショックを受けた覚えがあります。
スクリーンに向かって書いていって欲しい。テレビのサイズではクローズアップして顔を狙っていかなければ人物は映りにくい、などあるかもしれないけど、スクリーンなら引きでも人が映っていたりする。色々なものがある中で、映画に向かっていくということは、スクリーンに向かっていくということ。そのことを念頭に、書いていって欲しい。


『アロエ女』 (藪中輝)


「何を撮りたいのかがブレないこと」


いまおかしんじ:5本の中では一番話が面白かった。時間を感じられるホンというのはなかなか難しい…そういうのが上手く出ている気がした。

女池充:企画意図が凄くいいなあ、と思いました。10個の企画の中で、一番映画を感じた。脚本としてはまだ書ききれていない部分が多く、印象は弱かったですけど。他の脚本は、最初一歩は面白いのに、どんどんそれていってしまう感じがある。(物語が進むにつれて)どんどん人のせいにしている感じがあった。まずは自分が何をしたいのか、何を撮りたいのかが、初めの一歩はあるんだけど、それがどんどんそれていく。ブレていく。ブレていないのがこの『アロエ女』だった。向き合い方が真摯な感じがした。

いまおかしんじ:こうした映画を撮りたいと思ったきっかけは?

藪中輝:きっかけは、男より女を描きたいがありまして。10代から20代までの女の人…輝ける余地もある、そういう人を描きたい。僕は喜怒哀楽では、怒哀を描きたい、それにしか興味が無いんですよ。映画館で絵に描いたようなハッピーエンドや喜楽を観ても、一番つまらないというか…。

小川英子:(藪中の企画案にインスパイアされ、『悲しくなるほど青』というアレンジ版の企画を出した。)私も、哀に美しさを感じてこの企画に惹かれたんです。ただ、前の企画書では最後、電話かけて終わる、だったのが、お祈りして終わり、になっていた。ここで具体的にどういうイメージが描きたかったのかが分かったというか…。

藪中輝:単純にボロボロに泣く女の子の顔が観たかった、見せたかった。ボロボロに泣くのを登場人物ではなく、観客が初めて気付くような。

女池充:脚本を読んだ時、一番印象に残ったのは確かに最後の部分なんです。最近人の脚本を読ませて頂く機会が増えて、なんでもないところなんかをフッと読んで、ああここがやりたいんだ、ここから脚本が始まったんだなあ、と思う瞬間がある。で、実際に脚本を書いた人と会うと、結構そう思えたところで、当人もそう書いていたりする。ああ、そういうところって伝わるんだな、と思いましたよね。そこが藪中さんの中で強くやりたいところであれば、そこを核にして組み立てて頂きたいですね。

先程、喜怒哀楽で「怒」と「哀」に興味がある、とおっしゃっていましたが、「喜」と「楽」があっての「怒」と「哀」であったりするわけじゃないですか。また、男性として、女性を対象として興味があるっていうのも、女性側から観たらどうなのか…?そういう うがった、逆の観方もあると思うんですよ。小川さんは、例えばスッと入られたみたいですけど。男側からつくられた女性像、ということでは他の女性の方はどう思われますか?

皆川由起:企画段階から気になってはいました。脚本は、まだ半分しか読めていませんが、企画段階よりも引き込まれる感じはありました。

稲葉淳子:脚本を読むと、全体の流れもあって企画段階での違和感も無く読めました。

女池充:企画段階での違和感とは?

稲葉淳子:彼女が学生の時と、6年経って違う生活していて…。企画段階ではそういう切り替えが、しっくりは来なかった。


「脚本に書かれていない部分」


いまおかしんじ:今の切り替えの話だけど、この脚本の肝になる、彼女の“ある行動”の動機(※具体的掲載をここでは避けます) を書いてないじゃん。どうして書いていないのかな、って。あの時間の間に何があったのかな、て。

藪中輝:何があったのかを想像させる方向に向かっていきたいな、と。

いまおかしんじ:その点には皆さん、違和感はありませんでした?

稲葉淳子:その部分はそこまで突っ込まなくても、全体のトーンに紛れて…突っ込まなくても全然いいかな、と。

女池充:想像させたい、ということですけど。それで、何を撮りたいのかというポイントが外れちゃうと、実感が伴わなくなってくると思うんですよ。まずは登場する人物、人間をつくっていかなければいけないんじゃないか。そこと、今おっしゃっている部分が合致しないとね。…難しいんだけどね。まず何を撮りたいのか、ていうことを、例えば登場人物などを主体に考えていって欲しいと思います。そこと、自分が思っている部分とをどうやって合わせていけるのか、と。
企画に書いている「飽きさせない」であったり、今おっしゃった「想像させたい」は最初に来ることではなく、結果というか。それが先にくると、本末転倒じゃないのかなと思うんです。

いまおかしんじ:会話部分も、「〜の話をする」とかじゃない。これは?「〜の話をする」じゃなくて、その会話内容を書いてくれよ、と。

藪中輝:そこは、締め切りまで時間がなくて…。でも書かなければ、役者は演じられないですよね。

いまおかしんじ:書きやすいところは書いているけど、書きにくいところは後回しにしているじゃない。

女池充:そこは俺、いい面でも悪い面でもあるというか。書き切るために、それらを選択した、というのは一つにいい部分だと思うんですよ。ただ、書けないところはスルーしていった、というのが癖になるとまずいかな、と。壁ができても、よけて前に進めてしまうんでね。まだ脚本としては全然書けてないですよ。そのあとに、企画を読んで、ああいいな、と思った。脚本としてはまだスタートラインに立ててないよね。

渋谷宗孝:僕は盛り上がりや落ちなどがハッキリ無いことが気になりました。

藪中輝:観ている人が「え、これで終わり?」でもいいんじゃないかという思いもあって。想像してください、と。

いまおかしんじ:今気付いたんだけど、今の(渋谷さんの)「落ちていない」ってのは、これはこの女の人と母親との話じゃないとダメなわけよ。そうなってないんだよ。そういうことだよね?中盤、母親のことが忘れられているし、頭もそれほどからんでもこない。

女池充:それもあるかもしれない。

いまおかしんじ:これは母と子の話です、ていうのをクッキリと打ち出したら?今思いついたけど。

女池充:そこで、タカコとリョウコというのが出てくると思うんですよ。「目を瞑ったまま空を見上げるリョウコ、タカコ」というこの一行は、素敵だなあと僕は思うんですけれども。でも、この一行だけ見ると、最初にその人の中にある、分からない、もう一つの何か…小川さんの企画にあったのか、別の情景ていうものが出てくるのかもしれない。今、いまおかさんがおっしゃったことて、大きなことかな。これはまあ第一稿ですから、書き切るところまで書き切ってしまって下さい…。

いまおかしんじ:書いては人に見せて、意見を聞いて、発見してね。



『復讐らぷそでぃ』 (皆川由起)


「 着地点をどうつけるか」


いまおかしんじ:こういう芝居を上手く撮るのは非常に難しい。テンションも高いし。それでこういう話、どこかで読んだことあるな、と。考えたことがそのまま書かれている感じかな。…オリジナルな感じが欲しいかな。どこかで見た何かではなくて、自分で実感できる何かであったり、感情であったりが欲しい。ただ、すらっとは読める。ト書きやら台詞やらは一番こなれている感じがした。

女池充:俺も似たような感じはしました。例えば劇中のカミングアウト…ためているものを発散仕切ったさきに、次にいけるんじゃないか、と思うんですよね。いかないと、その先には進まないんじゃないのかな。復讐は分からなくは無いんですけど、タイトルに復讐がついているわりには、彼女の復讐心が伝わってこないというか。

いまおかしんじ:どうしてこういう話を?

皆川由起:プレゼンをしている中で、おっさんがファイト燃やしているという、ビジュアルのイメージから話をつないでいって…。本当は可愛い女の子の話を私もやりたいと思っていたんですけど、全然違う方向になってしまって…80年代と、おっさんがバイクに乗っている、ていうのがビジュアル的に説明しやすいな、と。イメージがあったものとをつないでいる、ていうのはありますね。

女池充:こういうラストにしたいというのはどこかで決まって書いていた?

皆川由起:それは脚本を書いている時に、どうしようかな、ていうのがあって。ラストはシリアスな話には持っていけなくて、内容的に。それで絵的に派手なものを選んだ、ていうのはあります…。

女池充:やっぱりそれって着地させたい、ていうのはあるんですよね。結局どこかで無理があって。無理が無い方向に、無い方向に、と話がそれちゃってもいいんで、それでどこに行っちゃうんだろう、ていう感じは無かったですか?…まあ、公開が決まっているとか外的シビアがあるなら、着地点がなければいけない、というのがあると思うんですが、今回は無いじゃないですか。それで着地点を見つけてしまうのは?

皆川由起:締め切りもあって仕上げなくっちゃ、というのがあって。「書きたい」ていうのがあって。ストーリーもまとめてしまって…。

いまおかしんじ:モチベーションは?楽しかった?

皆川由起:やっている時は楽しかったですよ。部分部分ですが。


「 キャラクターについて」


原口陽路(俳優コース):ベタな話だとは思います。オカマの役がもう少し濃いかな、て思って。

女池充:登場人物のキャラクターの中で、身近さを感じる部分、台詞、動きであったり、そこを足がかりにしてキャラクターをつくっていけそうな部分ってあります?

原口陽路:うーん…。思い切ってオカマの役をやってみたい、ていうのはありましたが。自分がオカマとしてどうこう、とかそういうことも言わないオカマかな、と思って読んでいました。そういうのを乗り越えてきた人なんじゃないか、と思って。

女池充:読み手や観る側が、自分に引き寄せて映画を観たり脚本を読んでいたりしているんじゃないか、と思う時があるんです。こういうことを実は考えている人間なんだ、ていう…そこで、役であったり、キャラクターをつくっていけるとも思います。この場合、脚本としての甘さが、キャラクターに統一感を感じさせなかったとも思う。

米倉祐依:シナリオの面白さって何ですか?企画が面白いから、さらに前に進んでいって、シナリオにしていくんですか?それとも、企画がまだ面白くなる余地があって、さらにシナリオにしていって面白くなって、映画を撮っていくんですか?

女池充:身も蓋も無い言い方すると、撮りたいから書くし、撮りたいからつくる。まずはそれよりも、何を撮りたいのか、ていうことを考えるべきだとは思うんですよ。もっと初期衝動で進んでいっていいと思うんですよ。僕は一球入魂タイプではないので、ピンク映画やっている、ていうこともあると思うんですけど。やっている中で、一歩一歩上がっていければいいかな、とも思っていて。それが自分の体質に合っているとも思うし。(ピンク映画なら)20代で監督できるというのもありますしね。僕は今、一年に1本ですけど、僕が助監督やっている時は、一年に2,3本やっている人もざらにいましたし。バジェットの大きさとか、シビアな面もあると思うんですけれどね。

別に面白くなくてもいいじゃないか、と。まずは撮りたいものがあったら、それを撮ってみろ、それが大事だと。自分がまずお客さんになったら…何が観たいのかっていうと「この人何をやりたいのか」「この人何を面白がっているのか」であったりするんです…それは、映画じゃなくても、人と話す時でもそうじゃないですか。変に、必要以上に考えることはないと思う。一歩を踏み出せなくなると思います。そういうのは後回しにしていますね。

いまおかしんじ:自分の日常振り返ると…バカみたいにヤケになれることがないと、ごまかしきれない、てあるんですよ。ホント言うと、シナリオとか映画とかつくらない方が幸せな人生歩めるとは思いますけど。趣味でやるようなことではないと思うんです…何言っているか分からなくなってきた。
 
何故主人公のマル子はこの二人を連れて行ったの?

皆川由起:一人じゃ行けなかった、ていうか。

いまおかしんじ:(作劇の)ご都合に感じるんだよね。

女池充:彼が二人を連れて行きたい、ていうのにもっと素直にならないといけないんじゃない?どこに正直になるのか、ていうと、一人じゃ行けない、連れて行きたい、ていう想いにもっと向き合った方がいいと思うんですよね。成立させなくてもいいから。その方が自分なりの誠意が示せるかな、と。



『尼僧の華びら 冴子』 (戸田光啓)


「血の通った登場人物×映画の技術的達成=意味×無意味?」


いまおかしんじ:まず読みにくい。台詞が少なく、ト書きが多いからかな。ストーリーはある感じだったけれども、登場人物…冴子が何を考えているのか、富士夫が何を考えているのか…血が通っている人間の台詞やら動きやらがしなかった。血が通う、ていうのはそこで共感やらを得ることなんですけど、それが無いと観ているのがつらい映画になるのでは。色々な方法があって、必ずしもそれだけが方法ではないんだけれど、僕は撮る上ではそれは思う。単純な疑問もいくつかは思って、何で尼さんやってんの?とか。

女池充:確かに読みづらいというのはありましたが。尼さんと、後半のレイプというのが、人間のきれいな部分と汚い部分との対比なのかな、と。血が通わない、ということに関しては、ストーリー先行で書かれているからかな。ストーリーだけでは、映画にも脚本にもならない。小説にもならないと思う。
 
僕は例えば月刊シナリオでピンクシナリオ公募、というのに携わったりもするんですが、確かにフォーマットに重きを置いて読んでいる人もいるんですが…ピンク映画としてどう成立させるのか、ていうことをね…。

戸田光啓:私の中でピンク映画はジャンルであって、ジャンルではない、というか。コメディにもなりえるし。ピンク映画というジャンルは無いんだと思います。

企画意図に関しましては…元々、私はフィルム・ノワールで企画を出していました。その際、プロデューサーである富岡さんに、ウソでもいいからとにかく納得させる、まず面白さをプレゼンしろと。私が好きなソ連映画で、外の階段を喪服を着て上がっていく女がラストに出てくる、というのがありまして。それは昼間のものだったのですが、それを黒い夜をバックにして黒い服を着ている女を撮ってみたいと。
 
映画を観ていて…生々しい白であったり、生々しい黒であったりというものになかなか出逢えないんですよね。黒いものを撮ったから、黒くなったりは簡単にしない。それを技術的に達成する、というのは映画的な冒険じゃないかと。
 
ただ、それをプレゼンしたら「黒にどんな意味があるんだ」と批判がありまして。しかしこちらは、技術的な達成を考えてプレゼンしていて、やっぱり意味がないものに、意味をつける必要は無いと判断しました。その時に、黒の技術に寄与する映画をつくろうと思って、闇の雑木林を、身体を黒く塗った女が走る、というイメージがまず浮かびました。そして、身体を黒く塗るには女性が裸にならなければならない…裸になる必然性を考えた時に、ピンク映画ということを考えました。
 
本当にその場面が面白いのかと言われれば、断言であって、必ずしも面白いかといえば、それは分からない。

女池充:企画の仮題の方が、しっくりはきたんです(※戸田の前企画『ひたすらな黒々しさに意味などがあるはずがない』<仮>)。この企画のタイトルの方が、見えやすい、ということですよね。面白いと思うのかはどうかとして、面白いと思うしかない、というのはありますよね。確認はできない。結局は自分がやりたいかどうか、になっていく。疑いを持ちつつも、そこへ向かっていく。今お話伺っていても、それだけのビジョンがある。それで出来上がったものは、ト書きは多かったり、読みづらかったりする。最初の企画意図を書き上げていく段階で、見えづらくなっていく。そこはもったいない。

戸田光啓:ト書きは一つ一つ、ショットになっていくだろう、と。

女池充:僕も脚本書けない方なんですけど、最初はト書きにどんどん書いていったりする。実際に撮る側になっていくと、ト書きが多いと、まあ、うざったいですよね。撮る側は。演じる側としてはト書きがあった方が演じやすい場合もあるかもしれないけど…。伝えたいからこれだけ書き込んでいると思う。伝えたいという意識が、書く側の伝えたいという意識が、勝っているんじゃないかな。受け取り手の立場に立ったら、どう伝わるか。それをもう一度、立ち戻って考えて欲しい。

戸田光啓:ト書きが多い方が、画面が見えてくる、というのがありまして。ただ、これを自分が撮らないということを考えた場合、どうなるのか、間に抜け落ちているショットが多いのではないか、これを他人が撮るとしたら、想像力を掻き立てはしないだろう、とか。

女池充:映画は一人じゃ撮れない。それじゃ伝わらない、こうしたらどうだ、とか他者とのやりとりがあってもいいのではと。小さな映画だったら、価値観を共有できる人でやれたらいい。でも、色んなものを巻き込む映画だったら、どうやって伝えていくか、ということは必要ではないか。関係性の築き方というところを考えていく。沢山考えて、書くということの繰返しになっていくんだけど。


「 111年の映画の歴史を経た現在、映画を撮るということ。観るということ。」


戸田光啓:京都のとあるビデオ屋で、ソ連映画を観たりするんですが、まあ言葉は分からないので話も当然分からない。字幕も無いですし。それでも映像観ていると、凄いっていうのは分かるんですよ。共感を得られるか否か、というところで映画を観ているということは私の中では全然無いですね。

いまおかしんじ:じゃあ何を面白がってるの?分からなくても面白いものとは?

戸田光啓:女の人の髪が風にゆれるところとか…小沼監督の最近の作品の、最後のバスのシーンで、戸田菜穂がバスに乗り込む時に揺れる風とか…。あの風があるか否か、ていうのが結構大きかったりします。
 
映画を企画で簡単にねじふせられるものではない、という思いはあります。私も映画観てきましたが、こんなことは出来ない、凄い人が山ほどいるわけですし…。111年の歴史を考えると、まず敵わない。
そんな時に面白いと思うのは、例えば『かえるのうた』でパンを剣にして殴りあう、というのがありますよね。あれをやった監督はいないと思うんです。ああいう時、誰もやっていないことをやっているな、面白いな、と思ったりします。人をパンで殴ることに共感できるかと言えば分かりませんが、あれは思いつかない。

女池充:パンで殴る、ということから始めたわけではないとは思いますけど。

いまおかしんじ:大概のことはどこかで、誰かがやっている。でもまた新たにシナリオ書いたりするわけじゃないですか。名作がいっぱいあるから、俺ももうつくらなくていいんじゃないか、と思う時はありますよ。だけど、誰かが言っていたけど「今、ていう時代につくっていること」だと。勝てるのは時代性だけだと。過去の名作は過去につくられているから意味があるし、まだこの先つくっていいんだ、と思うんですよ。どんなに名作があろうとも。そのへんをどう捉えるか、ていうのは難しいかも知れませんが。

花坂民男:僕はこれを読んでいて、とても映画に対する意識、知識は凄いと思います。ただ、過去のものを観ることで培われてきたわけですけど、結局それを前に進める上で、次の時代に受け入れられるものなのか?とは思います。全体として読みにくい、というより、感覚としてとらえにくい、という思いはありました。話の展開とか、美意識で完結してしまっている。

戸田光啓:美意識というか、原理があるんですよ。私は例えば、花坂さんの作品は許せない。どうしても。こないだ貴方は、企画プレゼンの際(※9/17のワークショップ)に「台詞ばっかりですね」と批判され、その時、カメラが沢山動きますよ、そうでないとつまらないんで、と言われた。しかし、ドライヤーの『ゲアトルーズ』やストローブ=ユイレの映画なんて、カメラはずっと固定ですよ。簡単にカメラが動かないからつまらない、なんて意見は「映画の何を知っているんだ」と思いますよ。私は、それは許せない。映画が好きじゃないなら、撮るなよと。観る側としてはそう思うんですよ。私は監督にはなるつもりはないですが…年間、300〜400本観るし、友人は700本観る。そうしていると、映画が好きな監督の作品かどうか、ていうことはすぐに分かる。花坂さんの映画は、映画を好きじゃない人の作品だってすぐに分かる。

花坂民男:好きか嫌いか、ていうことが分からないんですよ。映画を観た数ですか?戸田さんが愛情を持って観ているのは僕も分かるんですが、それと同じことをしている人間でなければ認めない、という話ですよね。

戸田光啓:そうじゃない。カメラがサッと動かなければつまらない、が簡単に言えるのが許せないんです。
率直に、もう敗北宣言として言いますが、映画が今更、自分の企画で面白くなるとは思えないですよ。今からジョン・フォードになれるとは思わない。だけどせめて、自分の映画を観て欲しいと思うなら、他人の映画くらい観ておけよ、ということです。最低限、こんなことくらい知っておけよ、ということも知らないのは我慢が出来ない。111年の積み重ねで自分がいる、ということをもっと知って欲しい。

女池充:最初に僕は、「人のせいにしている」と全体的な脚本の総評を言いました。今の戸田さんの言葉にも、同様の印象を覚えます。発想自体はいいと思うんです、そこに覚悟があるかだけだと思うんです。僕は覚悟があれば、面白がれる。ただ、どこか限定している、客を選んでいることにもつながっていくと思うんです。そういうのはつまらないなと思う。他人に対して自分の主義主張がどれだけ違っても、他人に対しての思いやり、リスペクトする気持ちが持てない映画は、どれだけ立派な映画でも、僕は面白いと思わない。戸田さんを糾弾したいわけではないです、ただ最近僕が小さいな、と思ったのは『ヴィタール』であったり『誰も知らない』であったりして…。

戸田光啓:時代に受け入れられる、てどういうことなんだという思いはあるんです。そんなことで、信じられないくらい面白い映画を抹殺してきたわけです。それを80年代から色々な人が開拓してきた。お客さんのことを考えてつくる、となれば今全然違う話をしなければならないのでしょうが、山のように素晴らしい映画監督がいて、それらの多くの監督も時代に受け入れられなかったということ。

いったい、「時代に受け入れられる」ていうところからまず映画を観るのか?と思います。バルネットでさえ、最近やっと発見されてきた例もある、ロッセリーニも未だに全部観られていない。

女池充:抹殺してきた一人であるんですよ、戸田さんも。誰かがしているわけじゃない。僕もしているし、皆がしていることなんですよ、それは。そこを人のせいにしてはいけない。

いまおかしんじ:でも今確かに若いやつは、ほとんど映画観ないよね。

女池充:そうなんですよね。戸田さんの真っ直ぐな想いも分かる。想いをぶつけるのは大切な行為だけど、あまり人のせいにすると、コミット出来なくなっちゃう。それは映画じゃない、と思うんです。

戸田光啓:いまおかさんは、スタッフを説得するための、開かれた脚本を目指しますか?

いまおかしんじ:いちいち皆と話できないわけですよ、だから脚本がある。橋になるようなものになれば、と思って書いていますね。映画がよかったら、今度は映画を真中にして、第三者に広がっていく。見も知らない人と通じていくことは快感だと思うんですよ。その上でわりと、ウソはダメだ、本当に思っていることを呈示しないと、橋にはならないからね。なかなかその上で、人を面白がらせるのは難しいけれどね。

女池充:海外で映画を観たことあります?

戸田光啓:いいえ…。

女池充:楽しいですよ。みんなが映画好きなんですよね。日常の中に映画があるんですよね、19歳の女の子と話していてもね。心が洗われるし、少し楽になるし、可能性を感じるんですよね。日本もそういう方向に向けていきたいな、と思いました。あんまりマイナスなエネルギーでは、人って動かせないですしね。どうしたら自分が一番求めていることに近付いていけるか。
もしかしたら、自分のやりたいこと・やり方の過程で、自分を捨てていかなければならないこともあるし、それは多分、映画をつくるのも、観るのも、見せるのも同じだと思うんですよね。



『タソガレルコーヒーノイロ』(花坂民男)


「希薄な日常にひそむ違和感」


いまおかしんじ:俺はこういうシナリオ書けないな、と思った。ほとんど台詞だけだもんな。でも、大事なところだけ残そうと思うと、全然残らない気もした。そこは、一行くらい残って欲しいな、と思った。思いついたことがそのまま、疑問もなく形になっている気がした。実際は時間かけて考えた脚本かもしれないけれど、読んだ時の印象は、一行ポンと残るものが無くて…。

女池充:ちょっと人をバカにしているところもあるのかな。僕は嫌いじゃないんだけど、会話も面白いんだけど、スッと入って来ない。引っかかる。その後、企画を読んで「コーヒーとは時間の堆積である」と。ああ、俺が面白いと思ったのはここだ、と。ただその後、「刺激を求めつつも安心で退屈な生活に停滞している人を挑発できるか」という下り。これは引っかかって、挑発したいとか啓蒙だとか、それ自体を否定するつもりはないんだけれど、それは人のせいにしているところがあるのかな、と。それは今生活していて、違和感を感じるところ…その自分が感じた違和感に向かっていくべきなんじゃないか、と僕は思う。そうすると、出来上がった映画もいい意味でのゴリッとした違和感を感じるものになるんじゃないか、と思う。その先に観た人が色々と感じるもの、いい意味で背筋がゾッとするものになるんじゃないか。

作者の恣意的な部分はかえって、邪魔になるんじゃないか。恣意的なものをやりたいと思えば思うほど、そこから外れていくべきじゃないか。ちょっと前、大島渚の『愛の亡霊』シナリオ集を読んでいて、…『愛のコリーダ』の演技についてだったかもしれません…藤竜也の演技が、人をバカにしていて、それを通り越えて自分をバカにしている、と。なかなか自分のことをちゃんとバカにはできないよなあ、と印象に残りました。そういう道をたどっていくと、こういう企画意図に沿った作品が生まれるんじゃないのかな、という気はしました。

いまおかしんじ:どうしてこういう喫茶店舞台の映画を?

花坂民男:僕はやる気のない喫茶店が好きで。やる気のない喫茶店というのは、他に面白いものを持っていて、そちらの方が面白くなるんじゃないかと。まあでも、僕が好きな喫茶店というのは大体つぶれるんですけどね。反して、今カフェブームで、いろいろ喫茶店始めようとする人を見ると、あまり深く考えないでちょっと楽しいことをやろうとする、そして大体二年でつぶれると。そういう店に行っても面白くないんですよ。そこで飛躍すると、結局モノをつくる人と、消費する人とに分かれるんじゃないかと。やる気の無い店っていうのは、やる気がないようだけど、何かをつくりたいとは思っている。それは彼らと話していて思ったんです。一方、頑張っている喫茶店ていうのは案外、どこまでも流行や消費者的なもので留まっている。それを対立させながら、生産する意識を持ったら楽しいじゃないか、ということを書きたいと思った。僕は喫茶店が好きなんで、喫茶店の中で会話中心の映画があったら面白いんじゃないか、と思ったんです。日本映画って色々わざとらしいじゃないですか。コメディとか悲劇とか、露骨に描かないといけないみたいな。僕は淡々と描きながら最後にオチが来る、そういう映画が好きで。

木村文洋:この映画企画はまあ、人気が高かったんです。8票の得票を得て、全企画10本中、当選は5本し、『タソガレルコーヒーノイロ』は2位でした。各人2票の持ち票だったんですが。

戸田光啓:役者の方が多かったんじゃないですか?

木村文洋:そうですね。

いまおかしんじ:台詞が多いからかな?あ、でも企画段階での投票なのか。突っ込みづらいホンである気もするね。

木村文洋:僕は映像にして観たい、とは思わなかったんですよね。『アロエ女』なら最後のお祈りのシーンが観たい、『尼僧の花びら 冴子』ならセックスのシーンが観たい。でもこれに関しては、読むだけの満足で終わってしまう。

女池充:“堆積”ていうのは目に見えない。しゃべっていて堆積、ていうのが感じられたら、一つ面白いものになるんじゃないかな。

小川英子:最後出稼ぎに行かないといけないんですか?私と貴方とでここに居続けて何か変わらないの?とは思いました。コーヒーが時間を積み重ねていくように、そこで何かが変わっていくのを観たかった。何でそこから出るの?って。

花坂民男:時間の経ったコーヒーて不味くなるじゃないですか。何か新しいこと始める、探す、世界を広げる、新しいことを探す自分、ていうのが面白いんじゃないかと思って。

小川英子:新しいことを探すのを、そこに居続けることで出来ないんですか?場所をどうして移動する必要があるのか。

花坂民男:……。留まってしまう、停止する、と思うんですよね。やっぱり外に出るのが必要だなと思うんですよね。

戸田光啓:小川さんはドキュメンタリー撮っている方として、そこに留まっている方への目線もあるわけですよね?

小川英子:出口が見つかるわけじゃない、留まっている中で解決を見つけていくしかない、というのもあると思うし、そうなって欲しいな、と思って読んでいたというのもあるんです。

いまおかしんじ:リアリティというところでいうと、この脚本ならみんな呑気過ぎやしないか、と。ちょっと生き辛い感じがあって、立ち止って、そこに居る。本当は旅立ちたいんだけど、そこに立ち止っている。そこにも人間味はあるんじゃないかと思う。

女池充:俺の言い方なら思いやりとか、覚悟とかなんですけど。自分なら留まりながら、何かを探すタイプなんですよ。ここから出て行くってことに親近感はわかないんですけど…、ただあまりに自分の感情に素直になりすぎちゃうと、狭いものになっちゃう。単純に否定とか肯定とか以前に、つまらないな、となってしまうんですよ。凄い何もない話でも何でもいいんですけど、それへの覚悟が感じられると、自分と相容れない話でも観てしまう感じはある。

自分と逆の意見を持っている人の言葉を真摯に聞いて欲しいなと。

いまおかしんじ:全然違う話なんだけど、ヒットする映画、ていうのは主人公や登場人物のようになりたいな、と観る側が思う映画なんだ、と人と話していて…。いわゆるまあ、ヒーローもので、俺はそういうのがなかなかつくれないんだけど、この脚本の中にそういう人はいる?こういうふうになりたいな、と。
ある種の理想。

花坂民男:マスターがそうです。希薄だけど、前に進んでいるっていう。盛り上がるところは全然無いんで、映画にはしにくかもしれないですけれど。



『自殺した親友の代わり』(真猿)


「 ドキュメンタリーでも、脚本書かないと始まらない」


木村文洋:真猿監督は、本日ご参加できませんでした。つきまして、お二人のご講評を頂いて、監督にお伝えしたいと思います。ご本人がいらっしゃらないですが、お願いします。

いまおかしんじ:どんな映画になるのかっていう興味はあるよ。ただ、年間に日本で何人自殺して、ていう情報は別に映画に求めていない。そんなものは観たいわけではないと思います。この企画をやりたいという意志は分かるが、突っ込みは不足。こういう話を誰かから聞いたら、俺でも思いつくよっていうところで止まっている。それは何故かというと、質問で終わっているから。ウソでもシナリオというか、脚本としてはつくってほしい。インタビューして、答えも書いて、それで撮る時にまた答えが変わる。この先、何回か試行錯誤が繰り返される、というふうになっていけば面白いと思いました。

女池充:この注意書き、『実際に僕は死なないですよ』…とりあえず、この言い訳はやめてほしい。情報という話が今出ましたが…何を志向していくかが重要だと思います。志向して、情報でいくならそっちでいいと思う。ただ、僕も情報だけでは長いと思います。まああと、答えは書いていない。確かにそうなんですが、完結しちゃっている感じがする。意見を挟みこむ余地があまり無い感じがする。本当にドキュメンタリーとして撮りたいのかも分からない。答えの話で言えば、原一男…が浦山桐男という監督を撮っているドキュメンタリーがあって、「こう答えよ」という勢いで質問し、「そうですよね、ね。」みたいに答えを誘導しているものがあって、観ていて凄い笑えるし、面白い。ドキュメンタリーじゃないだろ、て。

それはまさに、情報とは真逆のものです。言ってしまえば、そういう覚悟みたいなものにもつながってくると思うんだけど。いかがわしい部分…お客さんに残酷だと感じさせる部分…ドキュメンタリーの禁じ手というか。どうなの?と思わせても成立しえちゃう。
あと企画を読んでいて思うのは、『石原氏(※親友を自殺で失ったという、真猿がドキュメンタリーで追おうとしている人物。)が納得したものを採用する。しなかったものは使わない。』とある部分。ここにガクッときた。最初からそこから始めちゃ何も始まらないだろう、と。そりゃ当然そういったもの出せないし、露悪的につくることも無いんですが、最初からそうある必要はあるのだろうか。これもさっき言った、僕が言う“言い訳”につながってくるんだけど。

木村文洋:お二人が、同じ状況に置かれたらどうしますか?例えば、いまおかさんが女池さんに「あなたは、昔自殺した僕の親友の代わりだ」と言われたら?撮ろうとは思いますか。

いまおかしんじ:どうなんだろう。思うかもしれないし、思わないかもしれない。解決しないと気持ち悪いから分かりたい、というのはある。人に見せたいから映像に残す、というのもあると思う。形にしないといてもたってもいられない、となると撮るのかも知れない。それはまあフィクションでも同じだけどね。
ドキュメンタリーは大変だよね。もっと端的に自分さらしていかなきゃならないから。だから、さっき言った“引き気味”だとダメだと思う。

女池充:だから俺、アダルトビデオは撮れないんですよ。服を脱ぐという意味でも、心の部分でも裸になれない。だからピンク映画を撮る。だから、アダルトを撮っている人と話すと、凄く引け目を感じちゃう。

だけど、そこから始めてみよう、というのはある。…自分が脱げないのに、脱いでもらう、という。イヤなんですけど。実際問題、自分は見えないし。じゃあどうやってイーブンな関係をつくるかを考えているんですけど。アダルトはドキュメンタリーと似ていると思う。いまおかさんはアダルトは撮っているんですよね?

いまおかしんじ:撮っているよ。ただ、同じじゃないかな。どうするかっていうのは、作品作品によって“何をさらしていくのか”ということは変わっていくとは同じだと思うけど。他の人の意見は?

藪中輝:この“遺言状を紹介する”というのは説得力があるのかな、と。インパクトはあるかもしれないが、それだけかも…。

戸田光啓:ピンとはこないですね。難しいです。真猿さんは『自分が親友の代わりだ』と言われたことについては、何も感じない方だったと、企画プレゼンの際におっしゃっていました。富岡さんはそれはおかしいと言い、私もそう思った。今の裸の話でいうと、この映画で技術の問題にはなっても、その裸の問題まではいかないと思う。まああくまで企画段階なので、今後のやりとりに関わってくると思いますが…。

小川英子:これってインタビューをしていることに違和感を抱くと私は思います。2人(※真猿監督と石原氏)は友達同士なんだから、インタビューをするというのはどうも…。それを遠くで見ている第三者の目があった方が面白いと私は思います。

女池充:でも友達同士で分からないことってあるでしょ?言葉にしなくても通じ合えちゃう部分を、言葉にしていく。結局、戸田さんがおっしゃった、どうなんだろう?というのはあるけれど、じゃあどうしたら面白くなる?というのは、話していく中で見つけていくしかないと思う。(真猿さんが)いらっしゃらないので、どうしても否定的な空気になっていくけど…。

花坂民男:ドキュメンタリーのホン、てあるんですか?

いまおかしんじ:
あるよ。テレビのドキュメンタリーのホンは、こういう感じだった(笑)。でも多分、撮影現場でもホンを書いているんですよ、そういうものだと思う。ただ、それにしても、読んだ時に『お、どうなんだろう?』と興味を惹く何かはなくちゃいけないと思う。


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